▼大正8年~
清水サッカーのルーツは大正8年にまでさかのぼる。静岡県に初めてサッカーをもたらした人物としては小花不二夫氏がその一人としてあげられる。彼の功績で大正12年以降、いくつかの県内中学校にサッカー部が誕生、14年には第一回近県中等学校大会が開催され、市内からは当時の庵原中(現在の清水東高)が出場した。昭和3年に静岡県体育協会が発足し、サッカー界を代表して小花氏らが活躍することになる。これが清水におけるサッカー界のルーツになる部分である。
▼昭和初期~
昭和4年に庵原中蹴球部が正式に発足、石田吉弘氏、長沢祐二氏、沢西淳氏らが選手として活躍、指導者には当時、東京高等師範の原徳治氏や早稲田で全日本代表の井出多米夫氏らが就き、それらの指導が清水における新たなサッカー導入へと繋がっていった。
昭和17年に帰清した井出氏を中心に、はごろも缶詰や日軽金(日本軽金属)にサッカー仲間の輪が広がっていき第二回国体では3位入賞を果たす。昭和23年に発足する清水サッカー連盟(現清水サッカー協会)初代理事長に就任した彼はその後も広範囲な活動で多大な功績を残した。
▼昭和30年代~
昭和30年代、日本サッカーはいわゆる御三家と呼ばれた広島・浦和・藤枝を中心に展開おり、当時の清水はどこにでも見られるごく平凡なレベルの地域に過ぎなかった。
昭和31年、市立江尻小を皮切りに、清水市内には小学生チームが次々と誕生、同時に指導者の数も増え、当時は中学・高校ともに藤枝勢が圧倒的に強く、追いつこうとしても在学3年間では無理と考えた指導者たちは少年を中心に強化する方針を固め、世界に通用する日本一の少年団チームを造れば、いずれその小学生が中学・高校と進むごとに強いチームができていくとの信念のもとさまざまな事に挑戦を続けた。
▼昭和40年代~
昭和42年、国内初の小学生リーグをスタートさせ、同時に指導者育成のためのコーチングスクールも開校。清水サッカー界にとって、昭和42年は特別な年となった。また、この年、東海四県サッカー大会が開催され、日本一のチームを造る一環として、市内の江尻・入江・庵原小の子ども達を集め、選抜チームを結成し、大会の優勝を飾る。昭和43年12月1日、JSL三菱重工 対 日本鋼管の前座試合に、全清水市内の選抜チームである『オール清水』が参加した。日本サッカー界に旋風を起こし続ける、後の『清水FC』の事実上の初陣となった。昭和49年、この選抜チームは『オール清水』として、韓国遠征を実施した。
▼昭和50年代~
『オール清水』は、日本協会の登録制度変更に合わせて、昭和52年に『清水FC』と名称を変更した。昭和50年には、ヨーロッパ遠征、昭和53年には、ブラジル遠征を行い、世界の強豪との試合を少年期に経験することになる。今でこそ高校生レベルの海外遠征は珍しくないが、当時の日本サッカー界が日韓戦で殆ど歯が立たない頃、清水の子供たちは5勝3分けの成績で帰清する。
その後、グローバルな感性を持った子供を育むという指導方針の元、子供にサッカーという窓から世界を見せ続け、この頃から徐々に清水FCは国内の少年団大会で注目されるチームになっていきました。清水サッカーの特徴のひとつは選手・指導者・保護者・行政が互いに協力しあい強化に取り組んでいることです。
▼~現代
現在では3才のチャイルドスクールから、年輩の方のシニアリーグまで男女を問わずあらゆる年代の人たちが清水区のどこかでサッカーを楽しんでいる。